トップ > 新聞

 ■ 同窓会新聞

   平成21年7月15日発行
   平成20年7月15日発行
   平成19年7月15日発行
   平成18年7月15日発行

 ■ 熊日 読者の広場より

   終戦後なのに戦死した将兵  齋藤泰雄 88=自営業 (熊本市)

 関東軍の南方要員だった私の所属する中隊(約二百二十人)は、ソ満国境の璦琿で乗った列車が故障、ハルピンで切り離された。そのため本隊が大連で乗船する輸送船の出航に間に合わず、結局中隊は中国戦線に回された。
 当時の日本政府は蒋介石の国民政府との停戦条約に基づき、日本軍の中国全域の占領地域と日本軍の兵器は、そのまま国民政府に引き渡すこととしていた。
 中隊は終戦十日後の八月二十五日、終戦による保定集結の命に従い、張登鎮の駐屯地を出発、保定に向かった。保定城南門を目前とした地点で、一万人を超えるとみられる共産党八路軍の包囲を受け前進を阻まれた。その後、白旗を掲げた八路軍軍使は中隊長疋田太郎大尉に次の旨の文書を手渡した。「日本の将兵諸君よただちに武器を取ってわが陣営に来たれ」と。
 八路軍は中国統一を目指し、国民政府軍との全面対決を決意。その最前線に日本軍将兵を外国人部隊いわば弾よけとし、さらには国民政府軍の攻略にあてようとした。疋田隊長は敢然としてこの申し出を拒否。中隊の約五十倍の八路軍の攻撃はすさまじかった。しかし、将兵は当初、「戦争は終わったのになぜ?」とたじろいた。
 これを見て疋田隊長は「生きるために戦え」と指示。この一言で将兵は気を取り直し敢然と戦った。折から繁茂する背より高いコウリヤンに救われたものの、疋田大尉ほか多くの将兵が終戦を知りながら散った。


   熊本城炎上の真相

 明治40年ごろ、熊商の教諭青木規矩男は姉の勤めていた飽田中部高等小を訪ねた。姉を待っていると、54、55歳の屈強な用務員が十年の役の話を始めた。村上という元軍曹で、谷干城司令長官の従卒をしていたという。
 「50年たったら、天下に発表して下さい」と元軍曹が打ち明けた熊本城炎上の真相とはー。
 谷干城に命じられ、一の天守閣とニの天守閣の床下に夜1人でたきぎなどを運んで置いた。糧食や重要書類はその前に持ち出されていた。2月19日、「村上、火をつけろ」と命じられ、火縄と付け木を持って走った。見る見るうちに火の手が回り、折からの金峰山下ろしにあおられ、火の粉が市街に飛散した。天守閣が燃え落ちたとき、谷は「加藤清正が築いた名城を谷干城が焼いた。すまぬ」と独語し、本妙寺の方に向かって合掌した。
 青木氏はニ天一流の達人だったが、昭和44年、84歳で没した。     (井上智重)


<<戻る

Copyright (C) 2007 熊商同窓会. All Rights Reserved.